「わたしの恵みは、あなたに十分である。」

 

DSC00632       📷イスラエルのガリラヤ湖畔。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

コリント人への手紙2、12:9

こんばんは。グレースシティのさとみです。

昨日はバレンタインでしたね^^♡みなさんはどんなバレンタインを過ごされましたか?

今日は、最近様々な出来事のたびに思い巡らせている御言葉と、バレンタイントークで再度思ったことを分かち合いたいと思います。

大人になってバレンタインの思い出話を友人の男性陣から聞くと(日本の習慣では、女性が好きな男性にチョコレートなどをプレゼントします)、

「もらって困った」とか「欲しかったものと違った」とか「お返しを考えるのが苦痛」など、贅沢なお悩み経験を持ち出す人が結構いるなぁというのが率直な感想です。苦笑

事実、わたしたちは自分が欲しい物ではない物を与えられたとき、「え、これじゃないんだけど…?」と、送り主の気持ちも思いやらず、少し残念に思ってしまう傾向があるのではないでしょうか。あるいは、「これは要らないから代わりにあれが欲しい!」と無茶なことを願ったりもします。

では、最高の創造主であり、時間や空間さえ支配する王であり、慈愛の父である神は、「間違い」や「不要なもの」を与える方なのでしょうか?「お返し」を求める方でしょうか。答えはもちろん否です。

そのように、自分の「正解」や「必要なもの」が手に入らず思い通りにならないことがあるからこそ、わたしたちは神を求め、同時に、そのように求める弱い自己と深遠なる神の存在を認め得るのではないでしょうか。

約2000年前、イエス様が世に現れたとき、彼は御父である神の御性質を語られ、多くの奇跡をあらわし、ご自身が預言にある世を救う贖いの子羊であると宣言されました。

しかし、多くのユダヤ人は「世(自分たち/国)を救う王なる方がこんなみすぼらしいわけがない」などの理由でイエスを拒みました。

自分たちのイメージする理想や、こうあるはずだ、という概念にとらわれていたせいで、神様の最高のプレゼントであるキリストを喜ぶことができませんでした。

キリスト者として、わたし自身が思い違い、陥りやすいことは「わたしの理想を達成させてもらえること(/願いが叶えられること/欲しい物を与えられること)が、神様からの祝福である」という思考です。(どなたが読んでいるかもわからないのに、これを告白するのは恥ずかしいのですが)

しかし、弱さを益とし働かれる神の存在を大きく認め、恵み深い神と共に歩むことこそが、祝福であると聖書は語っています。しかも神様のなさることは、小さなわたしがぼんやりとモノクロで描き計画する事柄よりもはるかに色鮮やかで、立体的です。そして、歩み始めてみると、それは自分らしく在れる生き方なのだと、思わされます。

わたしたちがお返ししたくても仕切れないほどの、大スペクタクルな神様の愛と恵みはもしかすると多くの場合、人間の目から見ると最初は「違う/要らない」と思うものなのかもしれません。

わたしたちの理想や強い願望といった偶像の罪が、神様の真意を見えなくさせていることがあるからです。

イエス様が、神様からの最高のプレゼントであり、彼の存在と十字架での贖いが最も自分に必要だということを受け入れたとき、みるみるうちにわたしの人生には平和が訪れました。それはまるで、正体不明の不治の病の病名が罪という名前なのだと明らかになり、完治する手段まで知らされたようなものでした。

わたしたちをこの罪から解放しただけではなく、絶対的な王である神の栄光を求め喜ぶ者へと作り変えつづける神様は本当にすごい方だなぁと日々思わされています。

いつも十分にわたしたちを満たし、わたしたちの弱さを用いてくださる、イエスキリストに、今日も栄光がありますように。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

コリント人への手紙2、12:9

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