奉仕にまつわる3つの “つ“

こんにちは、グレースシティのさとみです。みなさんは風情ある朗らかな秋を満喫していますか^^。

この秋、という季節は旧約聖書の時代から現代のイスラエル(ユダヤ文化)では始まりの季節として、毎年人々に大切なことを想起させる季節でもあります。

神である主がモーセの時代から約束に忠実な方で、主が愛された者たちを確かに救われた(救われる)、というその偉大な主の御業をおぼえ、人々は仮庵のまつり、つづけて過越のまつりを通し、主を賛美し、主に感謝を捧げます。

わたし自身も、3年前に現地での生活の中でこの経験をし、とても祝福を受けました。まつりのお話はまたいつかにとっておくとして、今日はわたしがそのイスラエルの滞在中に学んだことの一つを皆さんとお分かちしたいと思います。

わたしは、スタッフの87%が9カ国から集まる「奉仕者」によって運営されているクリスチャン団体で5ヶ月弱、フルタイムで奉仕をしました。

イスラエルは、日本を含めた先進国(欧米の大都市など)以上に物価がかなり高いので、奉仕者は現地での生活費のために前もって自国で献金を集めたり、貯金を切り崩したりしなければとても生活できません。

また、奉仕の内容は、一般の会社のように組織運営に必要なマネジメント、会計、マーケティング、広告などを始め、サポートを必要とする現地の諸団体や支援受給者への連絡やデリバリーなど多岐にわたり、とても複雑で肉体的にも精神的にも疲労をともないます。

このように経済的にも肉体的にも負担があり、人生の貴重な時間も捧げなくてはならないにもかかわらず、その団体で奉仕をしたい人はこの23年、後を絶ちません。

多くの奉仕者は、40代後半から70代で、牧師や宣教師、長老や教師を現役で行う、もしくはリタイアした夫婦たちでした。自分の貴重なバケーションを使って、あるいは、リタイアした後の穏やかな時間の代わりに、イスラエルという異国で熱心かつ真剣に仕える彼らは、勤勉で真面目と言われる日本文化で育ったわたしの目から見ても、明らかに…異様でした。

異様である、というのは、彼ら一人一人を表現する言葉が見つからないのです。

目は宝石を埋め込んだかのように輝いて、語る言葉は音楽のように優しくユニークで、子どものようによく笑い、小さなことにも丁寧に取り組み、熱心に御言葉に頼り、大胆に喜ぶその心は、まさに、まさに、キリストの香りがするような麗しい人々だったのです。

それまでの人生でわたしが出会ったことのない、この驚異的な彼らと過ごした数ヶ月によって、わたしの人生観や神様との関係性は大きく変えられていきました。

キリストにあって「奉仕する」「仕える」というわたし自身の基盤となっている概念も、この時新たに与えられました。

日本の教会はおそらくどこも奉仕者で満たされている!とは言えない状況にあると思います。(ただでさえクリスチャン人口は少ないので)

そのような中で、「奉仕は犠牲だから、覚悟と忍耐が必要」「つらくたってやらなければならない」という思いが生まれがちではないでしょうか。

事実、わたし自身も奉仕に携わる(携わってきた)人からこの言葉を聞いてきました。

教会での奉仕は、正直なところ、義務的な役割のようで「つまらない」。忙しい時間を割かなくてはならない中任されて「つらい」。この他にも様々な理由があって、結局「つづかない」。。。

こうした感情や経験をされた方も、あるいはその只中にいる方も、またはそんなふうになりたくなくて奉仕を避けている方もおられるかもしれません。

しかし実際のところ、わたしたちキリスト者は奉仕にさえ既に「招かれている」のです。

それはまるで、わたしたちにとって憧れてやまない人物が、正しく自分の能力や性格を理解し評価してくれた上で、「この仕事を一緒にやってみるのどう?」と直々に声をかけてくれるようなものであるといえます。

本来、全知全能である神様は一瞬で、この世界を滅びに向かわせることも、救うこともお出来になる方です。にもかかわらず、小さな人間であるわたしたちを選び、育み、ご自身の神の国の計画へと招いてくださっていることを思う時、神様がいかに人を愛し、神の側から自己中心的なわたしたちに深い関わりを持とうとされ、わたしたちに与えた人生がより一層エキサイティングなものになるよう願われていることを知るのではないでしょうか。同時に、神の懐の深さや忍耐強さ、最高の脚本家であるご性格を覚えずにはいられません。

きっと神様は、あなたの名前を呼ばれ、このように言ってくださっています。

「◯◯、この奉仕、一緒にやらない?お前が必要なんだ。絶対楽しいし、わたしとの関係も、他の兄弟姉妹との関係も、今よりもっと素晴らしいものになると約束するよ。大丈夫、わたしが全て責任をとるから。わたしを信じて、楽しみなさい」と。

神である方から誘われ、天国に向かう前にその素晴らしさを先取りして味わう『アクティビティ』のような喜びのミニストリー(神によって賜物が用いられキリストを喜んで伝えること)に加われることが、クリスチャンにとっての奉仕なのではないでしょうか。

奉仕を通して与えられる恵みは、神への信頼や関係性が「つよめられる」こと。自分一人だけでは成り立たず、互いに仕え合うという神の御心を経験することによって、兄弟姉妹との深い「つながりが与えられる」こと。そしてそれらをとおして自分という人格がキリストへ似た者へと「つくり変えられていく」こと。。。そのようにして、神の国を経験するという特権であると思うのです。

「理想的すぎ」と言われるかもしれませんが、わたしたちにとっての奉仕は、小さな子どもが大好きな親からおつかいを頼まれて用事を任される時、誇らしく喜んでいる姿と重なります。

「奉仕ができて嬉しい。神様の計画に参画出来て光栄な気持ち」へりくだりつつ、心からこんな言葉をいうことができたらと、わたし自身も日々願っていることです。

それは、3年半の公生涯で人々に仕え続け、自分の命を十字架にかけて捧げた、最高の奉仕者であるイエスキリストの御思いであると思うのです。

わたしがイスラエルで出会った、わたしよりはるかに年配のクリスチャンたち。彼らは奉仕に取り組む行動と心を通してわたしに力強い希望を与えてくださいました。わたしの夢は、わたしもいつか、そのようなおばあちゃんになって、次世代の若者の希望になりたい、というものです。

ユダヤの暦では始まりの季節である秋。

新たな気持ちで主に、「わたしの賜物は何ですか?何に遣わそうとされていますか?用いてください」と静かな場所で聴いてみるのはどうでしょうか。

神様の願いは、一人でも多くの主に愛された民たちが主ご自身と共に、仕え人としての喜びを経験することだと思います。

 

イエスと自分らしさとコミュニティと。

こんにちは!グレースシティのさとみです。
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タイトルに出したこの3つ、〈コミュニティ〉 〈自分らしさ〉 〈イエスの存在〉 について、最近よく思い巡らすことがありました。
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人間であるわたしたちには、生きた年数分の記憶があり、それを振り返る時、周りにどんな人がいたか、彼らから何を言われたか、あるいは何を一緒にしたかという思い出が必ず蘇るものだと思います。
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自分にとっていい思い出だったなぁということが思い起こされる時、いい出会いや、人とのいい関係性が必ず存在していたことに気付きます。
そして個性を尊重し合い、お互いに魅力的だと思える友人や家族、上司や取引先、部下の存在がどれほど素晴らしい益を人生にもたらしてくれたかを思うと、出会いを含めた〈コミュニティ〉という居場所はとても大切であると思わされます。
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しかし大人になってそのような居場所を求めると、少しばかり幻想的になりがちではないでしょうか。何か自分が無理をしなくても「自分らしくいられて」、「居心地がよくて」、「受け入れてもらえて」、「時に刺激的で」、「尊重し尊敬し合える」コミュニティというのは、実在するのでしょうか。
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数年前、ありのままでいいんだよ、あなたらしいありのままが素晴らしいんだ、という風潮がありましたね。(アニメの歌がものすごく流行ったのは時代を物語っていたからですね)
しかし、わたしたちのありのままは、神が似せて造った者であるにもかかわらず、自分が思う以上に罪に染まった汚れた存在です。
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ありのままの自分を認めて欲しいという気持ちは、自分(エゴ)が中心(神)でありたいという願いに近いのかもしれません。
この、ありのままの罪だらけの人間(一人一人)を唯一愛し、罪という性質から救うために、神様は愛する子であるイエスキリストを十字架につけました。
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わたしたちは、誰もが自分らしさを表現できるコミュニティを求めます。
それ自体は大切なことだと思います。
けれど、イエスキリストの十字架の死が、わたしたちの罪のために成されたことだと信じる人にとって、もっとも大切なのはありのままの自分らしさや、それに見合ったコミュニティを追い求めることではなく、聖書のみことばにあるキリストの生き方と彼の性質を追い求めて生きていくことであると聖書は語ります。
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そうすれば、必ず、絶対に、〈本当の自分らしさ〉が造りかえられ、その中にキリストの性質が輝きだすのだと。そしてそれほど素晴らしく、生きがいのある人生はないとパウロというキリストの弟子は何度もあらゆる町の教会へ手紙を書き送っています。
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そしてだからこそ、ありのままの罪だらけを許された者として、互いに愛し合いなさい、と彼は熱心に訴えました。そこに、キリストの義なるコミュニティが生まれるからと。
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わたしが今までに経験してきた素晴らしいコミュニティは、人間関係の摩擦が確実に生じていました。その時は苦しい時期であっても、人と人がぶつかり合うことで削られ、磨かれ、痛い思いをしながら不要な自分のプライドが暴かれたりそがれていく。
その経験は、まるでダイヤモンドを研磨する工程のようだと思ったものでした。嫌悪感を抱いていた相手に正直にぶつかると、その人の知らなかった輝きが見出されるのです。
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イエス様は今も生きていて、わたしたちがこの輝きを見出すまでの、忍耐と信仰を新たに与え続けてくださる唯一の方です。
そして聖書のことばによって、わたしたちは、神様の意思(心)をいつでも訊くことが出来る特権があります。
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願わくは、グレースシティの一人一人が、教会を通し、神の真実なるコミュニティをこれから後、何度も経験されますように。そしてキリストの強固なコミュニティとして神様が、わたしたちを立て上げてくださいますように。
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8月いっぱいはお休みとなりますが、ぜひ!まだ経験されたことのない方や、お休み中の方はまたいつでも、グレースシティのコミュニティグループへご参加ください^^。
↓ コミュニティグループって? ↓

 

 

誰かや 何かのために 祈る

こんにちは^^!グレースシティのさとみです。

ちょうど一ヶ月前、お天気が最高の日に祈り会のメンバーで、プレヤーウォークを行いました。

月に一度、第一礼拝前に行っている祈り会を、コアメンバーとしてリードしている4名と牧師、宣教師、全6名で皇居の周りをぐるりと一周歩きながら、東京のあらゆることについて、お祈りしました。

改めて、この教会が置かれている東京のど真ん中は、文字通り日本の心臓のように、休むことなく動き続けている大切な地域であるということをより一層理解しました。

政治・経済・マスコミ・文化・芸術・金融・教育・学業・歴史・伝統…と上げ出したらきりがないほど重要な機関が網羅されています。(同時に、東京や日本の具体的な現状について、無知な自分にもたくさん気付かされました!汗)

この日は最高に祝福され、楽しい交わりも与えられ、充実した時間を過ごすことが出来て本当に感謝でした。なので、早く教会のみなさんとも一緒に行いたいと願っています^^。

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さて、東京について祈る中でわたしが思い起こしたのは、アブラハムの切なる祈りでした。創世記18章16節-33節。

この箇所は、アブラハムが神を畏れへりくだり、自分の小ささゆえに神を信頼して懇願する心が浮き彫りにされています。これは、現代のわたしたちがどのように自分以外の人や物事のために神に(とりなして)祈るべきか、具体的に書かれている箇所でもあります。

簡単にこの箇所をさとみ訳として解説させていただくと、(聖書をお持ちの方はぜひ、聖書を開いてみてくださいね)

人の姿としてアブラハムの前に現れた主(神様)は、アブラハムの甥の住んでいるソドムとゴモラという堕落し尽くした町がどんな状況なのか確かめに行く、とアブラハムに告げます。するとアブラハムは「あなたは本当に正しい者を悪い者と一緒に滅ぼしつくされるのですか?」と問い、正義なる神へ訴えかけます。

「その町に正しい者が50人いたら?その50人のためにその町をお赦しにならないのですか?」アブラハムが聞くと、主はこう答えられます。「もし、わたしが50人の正しい者を町に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう」。

そしてアブラハムが訊ねるこの人数は、「正しい者が45人いたらどう?」「40人いたら?」「30人いたら?」「20人いたら?」「10人いたら?その町全部を赦す?」と交渉するかのように続きます。

神を心底おそれつつ、しかし妥協せずに食い下がるアブラハムに対して、その人数ごとに「滅ぼさないよ。その正しい者たちのために」と主は一回一回お答えになります。

このやりとりは、アブラハムが神様に対して、「どうかあの町を、滅ぼさないでください」と願い求め、アブラハムの切なる祈りに神である「主」が受け答えているように見えます。しかし会話に入る前の17-19節にはこうあります。

『「主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。(略)…わたしが彼を選び出したのは..(略)..正義と公正とを行わせるため、主がアブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである」

神である方がわざわざアブラハムにこれからご自分のしようとしていることを明かしているところに、主の憐れみ深さを感じます。

そして、崩壊寸前の町のために、弁護し、とりなして祈るという特権を神の側からアブラハムにお与えになっていることにも驚きます。
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なぜなら、全知全能であり、世界を支配する王である方は、誰に何も言わず、あるいは誰かに頼らずにどんなことでもお出来になる方であり、行われていいはずなのですから。
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主はアブラハムの信仰(ご自分との関係)を試されたのかもしれません。
同時に、アブラハムの祈りを導き、主は引き出してくださったのです。
そして、一生懸命に主にとりなし、心から人々のために祈るアブラハムの心を、純粋に喜ばれたのではないでしょうか。
アブラハムの主を大いにおそれ慕う純粋な信仰の美しさと、神に対する粘り強い忍耐に励まされる、大好きな聖書箇所です。
(アブラハムが祈る時に表現する言葉に注目!なので、ぜひ聖書を開いてみてくださいね^^)
そして祈りは、神様との関係を深めること、粘り強く訊き続けること、それ以上に聖霊と御言葉を通して、もっと神からの御声を聴くことだと教えられます。
わたしはこの聖書箇所を読んでいた時、アブラハムは愛されているなぁと思いました。
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わたしたちキリスト者は、神に選ばれ愛された者であり、神によって義とされた者たちです。
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ですから、アブラハムのように愛されている者として、へりくだって神の御前に出て、まだイエスを知らない人々のために、粘り強くそして大胆に、共に祈っていきたいと願っています。
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義人の祈りは働くと大きな力がある ヤコブの手紙5:16
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*祈り会は、毎月第3週目、12時から開催しています^^。ぜひ、お越しください〜。

「主がともにおられた」

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こんにちは^^。グレースシティのさとみです。

前回のブログにて、ロンドン&シンガポール短期宣教チームメンバーから来日のご挨拶がありましたがお読みいただけましたか^^?
わたしは、この日本へキリストの福音を分かち合うために来日してくださっている彼らの心を本当に嬉しく思うと同時に、主のご計画は恵み深く、素晴らしいなぁと毎年思わされています。

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なぜなら、彼らが自分の貴重な時間、お金、忙しい仕事の休みをとって(準備の時間もとって、)まるで特別な仕事の出張にでも来たかのように真剣にそして喜んでイベントやミーティングに参加して下さっているからです。決して、ホリデーといった類の優雅なスケジュールではありません。

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本日は、そんな彼らと過ごした一時をほんの少しですが分かち合いたいと思います。(主観がメインでごめんなさい)
昨夜は六本木と表参道コミュニティグループの合同の会として、ロンドンからのメンバーをお迎えし、「人生のフラストレーション〜成功と誘惑〜」というテーマをみんなで考えました。
聖書箇所は創世記39章1-23節。(主人に信頼されているヨセフという男性が、その主人の妻から言い寄られ(誘惑され)、それを強く拒んだことから逆に妻の虚言により陥れられて、牢屋に入れられてしまうストーリーです。)

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福田牧師からショートメッセージが語られた後、成功について神様がどんなふうに何を教えてくれたかという経験を2人の方が分かち合って下さり、その後ディスカッションとなりました。
成功とは何でしょうか?という問いに対して出やすい答え、お金や地位や評判、安定などは世が計りやすいものの一つであり、それはまた魅力的でもあります。しかしキリストを信じる者として、成功とは何かを考えるとき、それは多くの場合人々に認知されず、華やかな結果ではない場合が多いのかもしれません。また一見すると自分の望んでいた結果ではないこともあるかもしれません。

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多くの人々は、善悪よりも損得で物事をはかり、自分やその周囲により利益の出る見込みの高い物を好みます。それが多少悪であっても、得を取りたいと思うものではないでしょうか。そしてそのような思想が著しく文化や経済を発展させたという恩恵的な一面もあると歴史は語ります。しかしこの聖書箇所(と続き)では、誠実さを貫くことの重要性とその真実なる報いがあらわれています。まさに貧乏くじを引きつづけているようなヨセフの悲惨な人生ですが、その中にでさえ「主はともにおられた」と聖書は何度も繰り返します。

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キリスト者であるわたしたちが得やすい感情ですが、「神様…やっぱりわたしの祈り聞いてくれてないっ?!」と思ったとしても、確実に「主はともにおられ」、常にはたらかれているという畏敬を、もっともっとこのみことばを通して味わう必要があると思わされます。
後にヨセフの人生には大逆転が訪れますが、その摂理はイエスキリストの十字架の死と復活によって完全にあらわされました。

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一昨年、わたしはSALTのメンバーだったのですが、4月に行われた最初の会でメンバーに向けて福田牧師からのメッセージが印象的だったことを覚えています。
「これからの働きの中で、失敗して恥ずかしい思いをすることもあるでしょう。あるいは努力したことが報われないまま、誰にも理解されないで出来損ないのようなレッテルを貼られてしまうこともあるかもしれません。例えば決めたことを途中でやめて、諦めて逃げた弱虫だと言われるかもしれません。でも大丈夫ですよ。イエスがいつも共にいますから。彼はみなさんを決して見放さない。また彼は、最低最悪を経験された唯一の方です。そしてみなさん以上にみなさんそれぞれの性格や経験を彼はご存知ですよ。ですからどうぞ恐れずに、大胆に失敗してください。それがみなさんの、主にある特権です」

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この特権という宝の、持ち腐れをしてないかな?と振り返る時間となりました。キリストの逆転の法則に与ることのできる幸いを、大いに喜び感謝して、約束されたこの「成功の人生」を、歩みたいと励まされました。(それはわたしにとって簡単ではないことも告白します…)
そして一人帰りながら、今来てくださっているロンドン&シンガポールチームの一人一人を、神様は成功のうちに治めてくださっているのだと感じ、嬉しくなったひと時でした。

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彼らの日本滞在の日々を主が大いに用い祝福され、彼ら自身が福音の輝きを改めて見いだす尊い喜びの旅となりますように。彼らが帰国した後、互いに蒔かれた信仰の種が芽を出す喜びをいつか共有できることを願いつつ。みなさんと共にお祈りできれば幸いです。

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主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。(創世記39章2ー3節)

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平日の夜、28人もの方々がお集まりになりました〜^^!感謝…。

「わたしの恵みは、あなたに十分である。」

 

DSC00632       📷イスラエルのガリラヤ湖畔。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

コリント人への手紙2、12:9

こんばんは。グレースシティのさとみです。

昨日はバレンタインでしたね^^♡みなさんはどんなバレンタインを過ごされましたか?

今日は、最近様々な出来事のたびに思い巡らせている御言葉と、バレンタイントークで再度思ったことを分かち合いたいと思います。

大人になってバレンタインの思い出話を友人の男性陣から聞くと(日本の習慣では、女性が好きな男性にチョコレートなどをプレゼントします)、

「もらって困った」とか「欲しかったものと違った」とか「お返しを考えるのが苦痛」など、贅沢なお悩み経験を持ち出す人が結構いるなぁというのが率直な感想です。苦笑

事実、わたしたちは自分が欲しい物ではない物を与えられたとき、「え、これじゃないんだけど…?」と、送り主の気持ちも思いやらず、少し残念に思ってしまう傾向があるのではないでしょうか。あるいは、「これは要らないから代わりにあれが欲しい!」と無茶なことを願ったりもします。

では、最高の創造主であり、時間や空間さえ支配する王であり、慈愛の父である神は、「間違い」や「不要なもの」を与える方なのでしょうか?「お返し」を求める方でしょうか。答えはもちろん否です。

そのように、自分の「正解」や「必要なもの」が手に入らず思い通りにならないことがあるからこそ、わたしたちは神を求め、同時に、そのように求める弱い自己と深遠なる神の存在を認め得るのではないでしょうか。

約2000年前、イエス様が世に現れたとき、彼は御父である神の御性質を語られ、多くの奇跡をあらわし、ご自身が預言にある世を救う贖いの子羊であると宣言されました。

しかし、多くのユダヤ人は「世(自分たち/国)を救う王なる方がこんなみすぼらしいわけがない」などの理由でイエスを拒みました。

自分たちのイメージする理想や、こうあるはずだ、という概念にとらわれていたせいで、神様の最高のプレゼントであるキリストを喜ぶことができませんでした。

キリスト者として、わたし自身が思い違い、陥りやすいことは「わたしの理想を達成させてもらえること(/願いが叶えられること/欲しい物を与えられること)が、神様からの祝福である」という思考です。(どなたが読んでいるかもわからないのに、これを告白するのは恥ずかしいのですが)

しかし、弱さを益とし働かれる神の存在を大きく認め、恵み深い神と共に歩むことこそが、祝福であると聖書は語っています。しかも神様のなさることは、小さなわたしがぼんやりとモノクロで描き計画する事柄よりもはるかに色鮮やかで、立体的です。そして、歩み始めてみると、それは自分らしく在れる生き方なのだと、思わされます。

わたしたちがお返ししたくても仕切れないほどの、大スペクタクルな神様の愛と恵みはもしかすると多くの場合、人間の目から見ると最初は「違う/要らない」と思うものなのかもしれません。

わたしたちの理想や強い願望といった偶像の罪が、神様の真意を見えなくさせていることがあるからです。

イエス様が、神様からの最高のプレゼントであり、彼の存在と十字架での贖いが最も自分に必要だということを受け入れたとき、みるみるうちにわたしの人生には平和が訪れました。それはまるで、正体不明の不治の病の病名が罪という名前なのだと明らかになり、完治する手段まで知らされたようなものでした。

わたしたちをこの罪から解放しただけではなく、絶対的な王である神の栄光を求め喜ぶ者へと作り変えつづける神様は本当にすごい方だなぁと日々思わされています。

いつも十分にわたしたちを満たし、わたしたちの弱さを用いてくださる、イエスキリストに、今日も栄光がありますように。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

コリント人への手紙2、12:9

主の恵みは朝ごとに新しい

こんにちは^^!グレースシティのさとみです。
新年が明けてから早くも2週間が経ちましたね。
新年を迎えるとき、多くの人が「こんな一年だったらいいな」「こんな一年にしよう!」と希望を抱くものですが、みなさんはいかがでしょうか。

わたしが今年の一番はじめに思ったことは、「主の恵みは朝ごとに美しい(哀歌3:17-25)」という御言葉と、「明けましておめでとうございます」という言葉の共時性についてでした。

日本のお寺では大晦日(12/31)に「除夜の鐘」を鳴らします。「除」という言葉の意味は、古い者を捨て、新しいものを迎えるという意味があります。一年の最後であり新年を迎える日となる大晦日は「除日」とされています。

除夜の鐘は108回鳴らすのですが、それは人間の煩悩(苦悩)やこの世界の闇を清める意味があるそうです。
そしてその闇が明け、清い世となり新しい朝が来たことをお祝いする言葉が
「新年、明けましておめでとうございます」なのです。

この言葉をじっくり振り返る時、キリストを信じる者としてこのような祈りが与えられました。「神様は大昔も今日も、まっさらな新しい朝を日ごとに用意してくださった。"今日"、新しく注がれる主の恵みに気づける心の目と、神様を第一に信頼する心をお与えください」と。

状況や心境が憂鬱な曇り空であっても、わたし個人のそれとは関係なく、朝陽よりも眩しく輝く神様は、その曇ったわたしの心を一新に照らし、晴れやかにさせる御力があるのだと思わされます。

この一年、いや毎日、毎瞬(←放っておくとすぐ神を忘れて自分本意になる身勝手な人間なので)、曇り空の隙間から覗く光を信じて、むしろ隙間さえなく嵐の中にあっても、その向こう側には太陽をはるかに凌駕した輝きを持つイエス様がいつもおられることを喜び、聖霊によって目を上げて歩んでいきたいと願っています。

2018年、みなさんは神様に何を願い、何を祈りますか…^^

17私のたましいは平安から遠のき、私はしあわせを忘れてしまった。18私は言った。「私の誉れと、主から受けた望みは消えうせた。」と。19私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。20私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。21私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。22私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。23それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。24主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。25主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。 哀歌3:17-25

※上の写真は、わたしがイスラエルにいた時に撮ったガリラヤ湖をのぞむ夕陽です^^。(朝陽じゃなくてすみません…笑)

クリスマスパーティー

ハレルヤ!いよいよ、クリスマスまであと数日ですね。師走の忙しさの中に、幸せなクリスマスのひと時を見つけられていますか^^?グレースシティのさとみです。

今日は、先週開催されたクリスマスパーティーについて、現在SALTで来月までインターンシップ中のラファエルと一緒にインタビュー形式でお伝えしたいと思います!

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(以下さとみ→さ、ラファエル→ラ、と略しています)

さ「クリスマスパーティーはどうだった?」

ラ「楽しかったよ〜^^。すごくいい雰囲気だった。普段仕事があって教会に来られない人 や、イエス様のことをよく知らない人も参加していて、50人以上の人が集まったよ」

さ「え〜、すごいね。結構来たんだね!どんなことをしたの?」

ラ「みんなでクリスマスキャロルを歌ったり。グループに分かれて、チーム対抗でゲームをやったりしたんだ。クイズとかジェスチャーゲームとかもして盛り上がったよ。ちなみに食事はオードブルが出て、バイキング形式だったんだけど割と色々食べたね」

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さ「いいね〜!一番印象的だったことはどんなことだった?」

ラ「グループに分かれた時も、フリートークの時も、今まで会ったことがなかったり、話したことのなかったりした人とも沢山話すことができて、それがすごく嬉しかったな。行ってよかったなぁって思ってる」

さ「こういうイベントは誰でも参加できるから、いい機会だよね。クリスマスの本当の意味を知って一緒に感謝して楽しめるのは、すごく恵みだなぁって思う」

ラ「そうだね。教会に来たことがない人も、よくわからないけど誘われて来てみてよかったと言ってた。他にも、クリスマスソングが好きだから来たという人もいたんだよ」

さ「へぇ〜。確かに、クリスマスはみんなが好きな、、ある意味一つのシーズンだよね。決してクリスマスっていうイベントではないのだけど」

ラ「うん。イエス様の誕生を祝うシーズンだね。誰もがクリスマスを喜んで、なんかわからないけどクリスマスが好き、楽しみ、って思えるのは、神であるイエス様が世のすべての人を救うためにこの地にお生まれになったことを表していることと関係してると思うな」

さ「ね。神様の愛は無限で、それは世の中のいたるところであらわされているとわたしも思う。クリスマスは特にそれを思い起こさせるよね。プレゼントを与え合う文化や習慣も、キリストを最大のプレゼントとして与えてくださった恵み深い神様の愛を覚えることから派生してるよね」

ラ「クリスマスをどんなふうに過ごすか、福田牧師が短く語られたんだけど、今年はちょうど24日のクリスマス前日が日曜礼拝なんだよね!」

さ「そう!1部礼拝(1pm〜)はクラシックな音楽と共にクリスマスをお祝いするんだよね。2部礼拝(3.30pm)はジャズ!どちらもいいよね〜、ラファはどっちに行くの?」

ラ「1部……2部も」

さ「両方?!笑 わたしも両方出たいなぁ〜」

ラ「クリスマスパーティーに来てくださったみなさま、ありがとうございました^^!」

さ「スタッフとインターンの皆さんも、準備やお祈り本当にありがとうございました」

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ラ&さ「日曜日の礼拝でみなさんにお会いできることを楽しみにしています〜!!」

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クリスマス特別礼拝の詳しい情報はコチラ

 

祈りのよろこび

こんにちは。グレースシティのさとみです。
今日は11月7日に開催された祈り会での御言葉をこのブログでも分かち合いたいと思います。
毎月第2日曜日、グレースシティでは1部礼拝と2部礼拝の間の時間(14:30~15:00)に祈り会を行っています。​
​​教会のミニストリーや、様々な必要について具体的な課題を上げ、みんなで祈る時間を共有します。どなたでもご参加いただけますので、ぜひ一緒に祈りましょう!(途中参加・途中退席も大丈夫ですよ^^)次回の開催は、12月10日ですので、どなたでも気軽にお越しくださいね。詳細はコチラ
さて、今日お分かちする御言葉は、わたしが最初に覚えた大好きな聖句です。クリスチャンになったのはほんの数年前ですが、こんな風に生きていきたいと、キラキラした期待を抱いたことを覚えています。

しかし実際には、貧困や災害、病気、金銭トラブル、最愛の家族の急死など、受け入れるには難しく、苦悩の最中に置かれたとき、このみことばを実践する信仰の不思議や難しさを経験するのではないでしょうか。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

1テサロニケ人への手紙5:16-18

これは使徒パウロがテサロニケの教会へ書き送った手紙ですが、パウロ自身の人生を考えてみてもその困難と殉教への日々を思うと、いつも喜び、すべてのことに感謝することなど不可能と言わざるを得ません。またパウロは、ピリピ人への手紙4章4節で「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と言っています。この時彼は獄中にいました。24時間監視されながら生活することは相当のストレスがあったと思います。そうした中にあっても彼は喜びに満ち溢れていました。

…なぜでしょうか?

その答えは「主にあって」です。彼の置かれていた状況を見たら、決して喜ぶことなどできず、まさに理想論でしかありません。しかし彼は、神であるキリストがどんなときにも最善を成してくださることを固く信じていたからこそ、心から喜んでいたのです。

また、1テサロニケ5章18節。「キリスト・イエスにあって」とあります。

感情の生物である私たちが、起きる出来事に関係なくいつも喜んでいることは、到底できません。 喜びを失い、感謝を忘れてしまう出来事がたくさんあるのがこの世だからです。しかし、逆境の中にあっても、もし自分の考えや思いに流されることなく、キリスト・イエスを信頼するなら、喜び感謝することができるのです。 なぜなら、神はご自分の愛する子であるイエスに十字架という当時の極刑であった罰を受けさせることで、私たちが自分の罪によって受けるべき刑罰から解放してくださったのですから、イエスを通した祈りを決して無にされるわけはないのです。

いつも喜び、すべてのことに感謝するためには祈りが欠かせないのだと思います。この祈りこそ、いつも喜び、どんなことにも感謝できる秘訣です。祈りは信仰を支える土台であり、信仰を養う要であり、神様との対話であり、神と私達を結び、つなげる絆です。

「祈り」は、ご利益や願いを連ねるものではなく、どんな心の思い煩いも含んでいます。私自身、キリストを通して神様に自分の心の中を話し、何でも聞いていただいているのだという実感を得た時、状況や環境は変わらないのに、心が静かな平和に満たされ安心したという経験が何度も与えられました。

そして キリストを信じ、それが確信になっていく歩みの中で、「神の子」としての新しいアイデンティティが与えられました。このことを深く理解する時、キリスト・イエスにあって、わたしたちの心には喜びと感謝が溢れ出します。ネヘミヤ書8:10にはこうあります。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」

冒頭で、私がこのみ言葉を読んだ時、こんなふうに生きていきたいと思ったと書きましたが、聖書はこう語っています。

「これが、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と。

いつも喜んでいるとは、わたしたちの願望であるよりもむしろ、キリスト・イエスにおいて、神がわたしたちに望んでおられることです。イエスを信じる信仰を通して神がわたしたちに真実な​喜びを与えてくださいます。神を信頼し、祈りを続けてい​ると、不思議な喜びや平安と感謝が与えられます。信仰をもって、ともに、神の御前に大胆に近づき、祈っていきたいですね。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリストイエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

隠れた美−HIDDEN BEAUTY-

北海道の寒空の下、震えながら細々とブログを書いている隼人です。

直近の出来事ではございますが、先週の土曜日、10月14日に芸術祭「隠れた美 – HIDDEN BEAUTY」が開催されました。

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今回私は全体的にイベントの企画に携わることになり、様々な分野で活躍されているアーティストさんやボランティアの方々と1日に数十件というメールでのやり取りをする作業を約半年の間行いました。大きなプロジェクトということもあり、莫大な量の情報をまとめるのには苦労をしたこともありましたが、常に神様の恵みで心が満たされている自分がいました。

そのため、驚くことに殆どストレスを感じず、作業に没頭することが出来ました。

勿論行き詰ったこともありましたが、必要な時には神様が必要な人を送って下さり、うまい具合に解決して下さったのです。

自分の努力だけでは、この膨大な量の情報を管理し、人を動かすということは到底無理だったと思います。今思いなおして見ても、よく最後までやり遂げたと、不思議に感じて仕方がありません。人を繋げる事、そしてプランニングの能力は神様から自分に与えられた、かけがえのない賜物だと感じています。神様を受け入れてから、今まで自分の中に眠っていた賜物が開花しました。イベント事の企画、人と人とを繋げる能力、これらは適切な環境に置かれて初めて自分で気づけたギフト(賜物)です。自分の中に備わっている賜物が、神の御国にために使われるとき、驚くほどの力を発揮するのです。

このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。」ローマ書12:6-8

あなたはどのようなモチベーションで奉仕活動を行っていますか?

自己満足の為、神様や人々を喜ばせるために奉仕するのではなく、神様に愛されていることを喜んで仕えるという思考で行動をすると、不思議と疲れることはなく、むしろ満足感や達成感で心が満ち溢れます。

まだまだわたくしも発展途上の段階であり、常に模索をしている未熟者ではありますが、自分の賜物を発見できていない方へ言えることは、自分の為に生きるのやめ、神の栄光の為に生きてみると、求めている「答え」が自然と与えられるかもしれません。

祈りのコミュニティ

毎月2週目の1部礼拝と2部礼拝の間の時間(14:30~15:00)にグレースシティチャーチ東京では「祈り会」を行っています。
この祈り会は、神様に喜ばれる働きの一端となるよう、祈るわたしたちにとっても祈りの喜びを実感できる時間となるよう、集う人々と共に祈りつつ、まだスタートしたばかりです。
(どなたでも!ご参加いただけます^^。途中参加 ・途中退室、可能ですよ☆)
神様に聞いて頂きたいことは尽きないものですが、わたしたちはどのように祈ったらいいのでしょうか。
これについての答えは、祈り手の心の状況によって何通りもあると思いますが、聖書には明確に書かれてあります。祈りを聞いておられる神はいつも変わることがない、ということを覚えつつ、前回の祈り会で分かち合った聖書の箇所をご紹介します。

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目を覚ましていて、すべての聖徒のために忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」エペソ人への手紙6:18

この聖書箇所は、パウロがエペソの人たちに獄中から送った励ましの手紙の最後の章に登場します。エペソは偶像礼拝の盛んな地であり、物質的にも豊かな町でした。サタンの誘惑や試みが多いこのエペソで、パウロは手紙の最後にかけて、こう記しました。

「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」エペソ人への手紙 6章10節

「神のすべての武具を身につけなさい」と続きます。「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音の備え(靴)」「信仰の大盾」「御言葉の剣」などの言葉が出てきます。まさしく戦士が戦いに出て行く情景が浮かびます。

それは、わたしたちがこの世にあって流されやすく、弱い存在だからこそ、強められるために必要なアイテムであり、それらはすべて主なる神、キリストを信じることによってすべて与えられることが大胆に記されているのです。

旧約聖書を見ると、神様の力によって、どのような武器を持ちわせても、それを敵から奪いとられたり、失ったりして、力が弱まり、滅ぼされてしまった人々が多く登場します。

しかし、キリストを信頼した戦士たちは、たとえどのような結果になっても死ぬことがなく、天の御国で生きることが約束されています。

では、キリストの戦士として、わたしたちはどのように祈るべきでしょうか。

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。エペソ人への手紙6:18

すべての祈りと願いとは、神様へ対する感謝、賛美、とりなし、期待も嘆きさえも含まれています。それをいつも、どんなときにも御霊に導かれて祈りなさいと記されています。

そのためには絶えず目を覚ましていてすべての聖徒のために忍耐の限りを尽くし、また祈りなさいエペソ人への手紙6:18

情報が氾濫する中で、あらゆる誘惑にさらされながら東京に住む現代の私達にとって、絶えず目をさまし、福音を心のど真ん中に置き、キリストの元に立ち続けることは、まさに戦いであり、時に難しいことです。その中で祈り続ける忍耐を、神様は決して無駄にはされず、かえってそれを喜び用いてくださいます。

自分のことや家族や職場のことだけでなく、 「すべての聖徒のために忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」とパウロは書きました。エペソではユダヤ人と異邦人との一致が大きい問題だったのですが、私たちも一致のために、お互いのために、どんなに違う性格、違う背景の人々の中にあっても、全ての聖徒のために祈る者でありたいと励まされます。

一人でも多くの人々の信仰のために祈りを積み続け、主に期待し続けることが戦士の役目であり、必要であることがわかります。

キリストを信じ始めた頃は、誰もが信仰的には赤ちゃんです。しかし、日々、御言葉を食べ、祈りを重ね、兄弟姉妹と関係を築き、父なる神様に益々成長させられて、キリストの戦士へと成長 させられることが重要です。その一人一人が連なり、輪となって、神様の恵みや栄光を表すコミュニティへと変革するのです。

そのような変革を遂げたコミュニティへと成長するよう、イエスご自身も、忍耐の限りを尽くして、私たちのために自分のいのちさせ犠牲にして下さいました。十字架で、私たちの罪を聖負って、全ての聖徒に赦しを与えて下さいました。そして、イエスはエペソの手紙によってパウロを通して私たちが一致を持つ、成長したコミュニティになることを祈るように命じています。

この祈り会が、心を合わせ、御霊によって祈る時間となり、祈りの戦士へと主がわたしたちを成長させてくださる機会となることを期待しています。

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

そのためには絶えず目を覚ましていて、すべての聖徒のために忍耐の限りを尽くし、

また祈りなさい。エペソ人への手紙6:18