コミュニティグループ・ライフストーリー / Community Group Life Story

こんにちは。以前に1、2回このブログに投稿させていただいたアーロンです。今週のグレースシティの礼拝でコミュニティグループについてのライフ・ストーリー(証)をシェアしましたが、今回はその内容をブログにお載せします。

Hello, this is Aaron. I’ve posted on this blog once or twice in the past. This Sunday at Grace City’s worship service I shared a Life Story (testimony) about my experiences in my Community Group, and today I’m sharing the same content here on the blog. The English version is below, so please scroll down!

僕はグレースシティに2年ぐらい通っていて、コミュニティグループにも同じぐらい参加しています。コミュニティグループについて話すように頼まれて、何を言えばいいかたくさん考えました。どうやってコミグルを通して変えられたかについて話すのを期待されていたと思いますが、正直に言うと大きく変えられていないかもしれません。でも気づいたのは、変えられていないとしても、支えられている、ということです。

一昨年、日本に引っ越してきた時、友達を見つけられるか少し心配でした。2009年に、初めて日本に来た時は留学生だったのでホームステイや部活があって友達ができましたが、社会人にはそのような機会はありません。東京に来る直前に住んでいたニューヨークでは、教会に行って小グループに参加しても、本当に親しくなれる人がずっとほとんど見つからなかったという経験もあったので、少し不安でした。

最初にグレースシティに来た時、小グループに参加できるほど日本語に自信がなかったので、最初に入ったのは英語のグループでした。そのグループも温かく歓迎してくれて、感謝していますが、特に記憶に残っているのは現在のグループに入った時です。バイリンガルのオーストラリア人のリーダーに「うちのコミグルに来てみない?」と誘われました。

「そのグループは日本語だよね?コミグルに参加できるほど日本語が―」と伝えたところ、「いいよ、そんなの!アーロンが話してるの聞いたことあるよ!全然問題ない!入って入って!」という感じで答えて、本当に僕にグループに入ってほしいんだと感じて、とても嬉しかったです。

最初は本当に言語的に難しかったです。でもわからない時には繰り返してくれたり、言い換えてくれたりして、僕が話す時には忍耐強く最後まで聞いてくれました。毎週のコミグルの時間以外にも、僕たちのグループの人たちはよくご飯や遊びに行っていて、そういったイベントにも来たばかりの僕も誘ってくれました。

でもコミグルはただ優しい人々の集まりじゃありません。人を受け入れるのはただ気が合うからじゃなくて、私たちはキリストに受け入れていただいたのでその同じ愛を他人にも示したいからです。僕にとって特にありがたいのは、キリストにある兄弟姉妹として相互信頼があるため、心を開いて人生の問題と困難について話すことができるということです。

僕の気持ちはピリピ人に対する使徒パウロと同じです。「私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。」(ピリピ書1章3~5節)

他のメンバーも僕を通してキリストの愛を見て、人生の問題や困難を分かち合えると感じてほしいからできるだけ毎週コミグルに参加して、どんな話も聞いて、祈るようにしています。また、コミュニティは楽しむことができなかったら意味がないと固く信じているので、時々家でゲームナイトなどイベントを主催しています。そして、これからはコミグルリーダーになりたいと思っています。

長い間クリスチャンだった僕みたいな人にとって、このようなコミュニティを当たり前なことと思いがちですが、この世ではめったにないものです。だから、東京でも見つけられて、神様に感謝しています。

I have been attending Grace City for about 2 years, and I’ve been part of a Community Group for about the same amount of time. When I was asked to speak about Community Groups, I spent a lot of time thinking about what I ought to say. I think they were hoping I would talk about how I’ve changed as a result of CG, but to be honest, I’m not sure I’ve really changed that much. However, I realized that even if I haven’t been changed, I have been supported.

When I moved to Japan the year before last, I was a bit worried about whether I would be able to find friends. In 2009, when I first came to Japan, I was an exchange student, so I had the opportunity to stay with a host family and join clubs at school. But this time I simply came to work, so I didn’t have those kinds of opportunities to make friends. Also, in New York, where I lived before coming to Tokyo, even though I went to church and joined a small group there, I never really found anyone I was able to become close with. So I was a bit uneasy.

When I first started coming to Grace City, I didn’t think my Japanese was quite good enough to be able to participate in a small group, so the first group I joined was an English-speaking one. That group gave me a warm welcome, and I’m still thankful for it, but what really stands out in my mind is when I joined my current Community Group. That group is Japanese-speaking, and I was invited by one of the leaders who is a friendly bilingual Australian.

I tried to explain to him that I wasn’t sure my Japanese was up to the task, but he wouldn’t hear it. “You’re fine, mate! I’ve heard you speak! You’re not going to have any problem! Come give it a try!” I could tell that he truly wanted me in his group, and I appreciated it very much.

At first it really was tough, language-wise. But when I didn’t understand, the group members would repeat or rephrase things for me, and when I spoke, they very patiently heard me out. Our group is pretty social; the members often get together for meals or to hang out outside of the weekly meetings, and from the beginning, they invited me to these events as well.

But CG is not just a gathering of nice people. We don’t just accept people because we like them; we accept them because Jesus has accepted us, and we want to show them the same love. One aspect of this that I particularly appreciate is that, because we have mutual trust as brothers and sisters in Christ, I can open up and share about my problems and struggles in life.

I feel the same way that the apostle Paul felt about the Philippians: “I thank my God every time I remember you. In all my prayers for all of you, I always pray with joy because of your partnership in the gospel from the first day until now.” (Philippians 1:3-5)

I want the other members of the group to see Christ’s love and faithfulness through me as well, so I try to make a point of going every week, listening to everyone, and praying for them. Also, I firmly believe that there’s no point in community if you can’t enjoy it, so I like to host game nights and other get togethers at my place from time to time. I’m also planning to start leading a community group in the near future.

For people like me who have been Christians for a long time, I think it’s easy to take this kind of community for granted, but the truth is that it’s a rare thing in this world. So I thank God that I was able to find it in Tokyo.

奉仕する気分にならない時 / When We Don’t Feel Like Serving

こんにちは。グレースシティのメンバーのアーロンです。今回もグレースメンバーの結実さん、桃子さん、隼人さんに日本語翻訳をしていただきました。英語の原文は後に続きます。

Hello, Grace City member Aaron here. Once again fellow members Yumi, Momoko, and Hayato kindly translated my post into Japanese. The original English is below.

グレースシティチャーチでは、教会の内外で仕える機会が沢山あります。

今回「なぜ奉仕するのか?」という内容についてブログを書いてほしいという要望があったので、この記事を書いています。なぜ、奉仕をするのだろうかという動機と、奉仕する気分じゃない時に、どうするか?について考えたことをまとめました。

クリスチャンにとって、お互いのために仕えるという事は、オマケ(オプション)ではありません。聖書には、お互いのために仕え合いなさいとばかり書いてあります(例 : マルコ10章42節〜45節、ガラテヤ5章13節、ヘブル6章10節)。ヤコブは聖書の中で、自分に信仰があると言っても、その人に良い行いがないなら、本当の信仰とは言えないと言っています。(ヤコブ2章14-26節)自分の教会で、奉仕が必要とされているかどうかわからないって?教会のどの働き(ミニストリー)を見ても、沢山の奉仕者によって支えられているのがわかります。もしくは、いつもボランティアや奉仕者を募集していますよね。

もちろん、私たちは人間ですから、奉仕なんかしたくない、お互いに仕えたくないと感じる事が多々あります。奉仕をするには、それなりの努力が必要ですし、疲れますし、他にやりたいと思っている事を犠牲にしなければならない事もあります。では、もし奉仕が必要とされているならば、歯をくいしばってでも頑張らなければならないのでしょうか?やらなければいけないから、やりたくなくても無理矢理しなければならないのでしょうか?ほとんどのクリスチャンは、奉仕というものはいやいやながらするものではないとは理解しています。ガラテヤ書にあるように、私たちクリスチャンはキリストを信じているので「自由」であることも知っています。

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。― ガラテヤ5章13節

また、クリスチャンの人生の中心は規範に則ることではなく、恵みに基づいて歩むことだということもわかっています。(ヨハネの福音書1章17節、ローマ7章1-6節)それに聖書には、神は喜んで捧げる人を喜ばれると語っていますよね?

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。― 2コリント9章7節

それなのに私たちは時おり、喜んで与えて仕えることが難しく感じます。

奉仕はいやいやながらするのに、自分のためには喜んで時間とエネルギーを使いたいと考えます。これは言い訳ではなくて、悲しい現実なのです。

私たちは自分に奉仕を強制することはできますが、奉仕を愛することを強制することはできないのです。じゃあ、奉仕をしなければならないのに、それを楽しめないときは、どうしたらいいんでしょうか?日曜日に教会に来た時、誰かが〇〇ミニストリーの奉仕者が足りないとアナウンスしていたとします。表向きには自分の時間は空いているのに、な~~~んとなく気乗りしないとき、どうしたらいいんでしょう?

そんな時は、最初の原則に戻ってみる良きタイミングでしょう。

聖書ではこのことがすでに説明されており、注意深く読めば理解することができます:私たちが奉仕、福祉や慈善活動を行う時、義務感や罰への恐れからではなく、感謝と愛に動機づけられるべきだということです。

なぜなら神はキリストの犠牲を通して私たちに仕えてくださったのであり、それを通して私たちは謙虚さと感謝にあふれた気持ちになる。それが、他の人に仕える動機をくれるというのです。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。―Ⅰヨハネ4章9節

だから私たちが奉仕をするように求められているのに、そんな気分にならない時、強制されたように奉仕すべきではないと思います。だからといって、求められていること自体を無視すべきではありません。

その代わりに、自分にこう訪ねてみませんか? ― なぜ「神がまず私たちを愛してくださったから私たちも愛する」ができないのか?これについて心を静めて考え、祈り、知恵のあるクリスチャンの兄弟姉妹に相談してみてはいかがでしょうか。そうすれば、不思議な現象、すなわち理論と実践のギャップに対しての解決策が与えられるでしょう。

あなたは、神様は聖なる方で、敬意や尊敬に値すると心から思っていますか?そうでなければ、彼の命令に従うことに意欲が持てないのも仕方がないかもしれません。神様は素晴らしいお方で、あなたを祝福し愛してくださっていると本当に信じていますか?そうでないなら、仕えることに嫌気がさしてしまうかもしれません。あなたは自分が罪深い存在だと認めますか?そうでなければ、自分のプライドが邪魔をしてしまう場合があります。あなたは自分が赦されていると信じることができますか?そうでなければ、自分自身があまりに弱く不安定で、必要としている人たちへ手を差し伸べるのは難しいのかもしれません。

これらのことに疑問を感じているなら、聖書には十分な証拠が記されています。ぜひ、探してみてください。

真に喜んで与えるもの、そして心から熱心に喜びをもって与えるという理念はもはや、おとぎ話のように思えるかもしれません。しかしパウロとヨハネは冗談を言っていたわけではありませんでした。主イエスが私たちを先に愛してくださったから、喜んで与える者になることは可能なのです。この理論にはしっかりとした根拠があります。自分の人生がうまく行っていないのであれば、その根底にある物を探れば良いのです。神様はその手助けをしてくださいます。

ヘブル人への手紙6章10節には、「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」と書かれています。神様はたとえ些細なことでも、私たちの喜んで与える姿勢に歓喜し、その行いを必ず祝福してくださいます。

グレースシティチャーチ東京では、常に多くの奉仕者を必要としています。特に礼拝セットアップの搬入搬出を手伝ってくださる方を急募しています。

詳しくはコチラ  www.gracecitychurch.jp/volunteers

Grace City provides many opportunities for members to serve others, both inside and outside the church. I was asked to write a blog post about the motivation for this service, or, what to do when we don’t feel like serving. Here’s what I came up with.

For Christians, serving others is not optional. The Bible is full of commands to serve one another (e.g. Mark 10:42-45, Galatians 5:13, Hebrews 6:10), and James says that any so-called faith that does not produce good works is really no faith at all (James 2:14-26). And if you have any doubt as to whether service is necessary, just look at your own church. Does it seem like every ministry has an abundance of volunteers? Or are they pretty much always looking for more people to help?

Of course, very often we don’t feel like serving one another. Any service worth doing requires effort; it’s often tiring; it usually requires giving up something else that we’d rather be doing. But if it’s required and necessary, then should we simply grit our teeth and grind through it? Do it even though we don’t want to, because we have to? Most Christians realize that this isn’t how things are supposed to work either. We know that Christians are free (Galatians 5:13—the same verse as above!); the basic principle of the Christian life is not law, but grace (John 1:17, Romans 7:1-6). And doesn’t the Bible say that God loves a cheerful giver (2 Corinthians 9:7)?

Yet very often we find that we are not able to give, or serve, cheerfully. It seems like our only choices are to serve grudgingly or to cheerfully keep our time and energy to ourselves. This is not an excuse; it is cold reality. We can force ourselves to serve, but we cannot force ourselves to love serving. So then, when we are called to serve and we don’t love it, what are we to do? When we are sitting in church on Sunday and someone is reading the announcements and we are reminded yet again that XYZ ministry needs more volunteers, and we’re technically available, but, ughhhh…what are we do to?

This is the time to go back to first principles. The Bible explains these things for us, and if we have read it carefully, then we understand the theory: We are supposed to be motivated to service and good works not by duty and obligation or fear of punishment, but by thankfulness and love. Because God, through Jesus, sacrificially served us, we are humbled and grateful, and this gives us the motivation to serve others. “We love because he first loved us” (1 John 4:19).

So if we are called to serve and we don’t feel like it, then I don’t think we should force ourselves to do it anyway. Neither should we ignore the call. Instead, we should ask ourselves why “we love because he first loved us” isn’t working for us. We should meditate on this, pray about it, and talk to other wise Christians about it. We should find the solution to this mystery, this disconnect between theory and practice.

Do we really believe that God is holy, that he deserves our reverence and respect? If not, it’s no surprise that we are unmotivated to obey his commands. Do we really believe he is good, that he loves to bless us? If not, then it’s very easy for our service to become grudging. Do we really believe we are sinful? If not, then our pride may be getting in the way. Do we really believe we are forgiven? If not, then we may be too weak and anxious to be able to reach out to others. If we doubt any of these things, the Bible provides ample evidence for all of them. Search it out.

The idea of being a truly cheerful giver—actually being happy and eager to give—may seem like a fairy tale. But Paul and John were not kidding. It is possible to be a cheerful giver, to love because he first loved us. The theory is sound. If it’s not working out in your life, then get to the bottom of it. God will help you to do so. And as Hebrews 6:10 says, he “is not unjust so as to overlook your work and the love that you have shown for his name in serving the saints.” God is delighted with our cheerful service, no matter how small, and he will not neglect to reward it.

コミュニティ / Community

こんにちは、グレースシティに通うアメリカ人のアーロンです!今回のブログは友達の結実さんに翻訳していただきました。英語の原文は後に続きます。

Hello! This is Aaron; I’m a regular attender of Grace City from the US. My friend Yumi kindly translated this post into Japanese for me, but the original English is below.

日本の社会は、フレンドリーで真面目ということで知られています。これは特に僕のような外国人にとっては顕著に感じることです。僕は1年ちょっと前にアメリカから日本に引っ越してきました。とある多国籍企業で働いており、今までに僕と同じような駐在員にたくさん出会いました。その人たちの大半が、日本人のフレンドリーさに驚かされると言っていました。日本人はとても優しい人たちで、新しい人に出会うことが大好きな人が多いです。でも遅かれ早かれ、外国人は日本の社会に根付いた境界線の問題に直面することになります。例えば、「先輩と後輩」、「本音と建て前」、「内と外」などです。

この「内と外」がおそらくもっとも面倒な問題だと思います。僕は結構な頻度で、日本人コミュニティに本当の意味でなじめなくて、国へ帰ることにしてしまった外国人の話を耳にします。僕が思うに、友達ができなかったからではないのです。所属感やコミュニティへのつながりが欠けていたからなのです。

僕自信も日本の社会のストレスやプレッシャーを感じてきたので、ある程度は理解できます。でも広い意味で、僕の経験は他の外国人と比べて異なるものだったと思います。日本で過ごした1年半の間、僕は本当の友達を見つけただけではなく、自分のことを積極的に気にかけてくれて、受け入れてくれるコミュニティが少なくとも一つはあったからです。僕はただラッキーだったのかもしれません。ラッキーどころか、クリスチャンの言葉で言うならば、恵みによって祝福されているのです。

僕の場合は、寛大に受け入れてくれたコミュニティというのは教会であり、特にコミュニティグループでした。

クリスチャンとして、僕は毎週日曜日の礼拝を楽しみにしています。礼拝は、毎週一度立ち止まり、自分の人生の中心である神に焦点を合わせる機会をくれます。ただし、礼拝は他の人と知り合う所としてはベストな場所ではありません。ですので、グレースシティは多くの教会がやっているような、コミュニティグループ(以下コミグル)を毎週、開催しています。少人数のグループが、日曜日以外に東京の別の場所で集まるのです。コミグルでは聖書を学んで祈りますが、友人となり、一緒に考えることが重要な点です。僕たちは学びながらディスカッションをします。そして、自分たちの人生で起こっていることをシェアして祈り合います。

つまり、僕はコミュニティグループに参加することで日本で所属すべきコミュニティを見つけたのです。だからコミグルは本来の目的を成していると言えると思います。そうですよね?

でもどうしてコミグルは成り立つのでしょうか?どうして僕は疎外感を感じることなく、このコミュニティに惹かれたのでしょうか?どうしてこの特定の場所にコミュニティを見い出すことができたのでしょうか?

僕が思うに、クリスチャンが礼拝する神ご自身がまさにコミュニティであり、クリスチャンであるということはまさに部外者をコミュニティに受け入れるということだからなのではないでしょうか。

キリスト教の神はユニークで、3つの存在でありながら一体的です。神は父、子、聖霊の3つの「位格(人格)」から成っており、この3位は完璧な一体感を持つゆえに「ひとり」と呼ばれています。要するに、神ご自身がしっかりとつながり合うコミュニティそのものなのです。

神が人間を作られたのは、人間がこのコミュニティに参加し、これを拡大するためでしたが、人間はこれを拒絶し、自ら離れていったのです。人間はこの親切を拒絶で返し、神がこれに対して怒るのは人間にとって当然の報いです。人間は自分が払える以上のものを神から受けています。でも神は僕たちのことを深く愛しておられ、彼自身が僕たちの負債を返してくださいました。キリストが十字架の上で死なれたとき、彼は僕たちが受けるべき罰を身代わりになって受けてくださったのです。その結果、僕たちが願えば無償の赦しが与えられるようになりました。福音、すなわちキリスト教のメッセージとは、キリストを通して僕たちは神のコミュニティに再入場できるということなのです。

教会が(きちんと機能していれば)素晴らしい受け入れの場所となるはずです。僕たちは何もしなくても、一人残らずみんなが神の家族として迎え入れられているのです。だから、僕たちも他の人々を家族として受け入れることができます。これは人格、言語、文化を超えるものです。これこそが誰もが参加できる暖かく、愛にあふれたコミュニティの基盤なのです。

Japanese society is known for being both friendly and rigid. I think this is especially apparent to foreigners like myself. I moved to Japan from the US a little over a year ago, and since I work at an international company, I’ve met many other expats as well. Most of them seem to be struck first by Japan’s friendliness: Japanese are all so nice, and most of them are enthusiastic about meeting new people. But sooner or later, almost every expat runs into one of the many boundaries in Japanese society: between senpai and kohai (social “superior” and “inferior”), tatemae and honne (a person’s “facade” and “true feelings”), or uchi and soto (the “inside” and “outside” of a group).

This last boundary is perhaps the most troublesome. I’ve heard more than a few stories of expats who have left after a few years, frustrated that they were never truly able to work their way “into” a Japanese group. As far as I can tell, what they lacked was not friendships. It was a sense of belonging, a sense of community.

To a certain extent I understand, because I have felt the stress and pressure of Japanese society myself. Yet on the whole, my personal experience has been very different. In the year and a half I’ve spent here, not only have I found many genuine friends, I have also found at least one group that has actively reached out and drawn me in. Maybe I just got lucky. Actually, I won’t deny that I’ve been very lucky–or to use the “Christianese” word, blessed. But I think there’s a bit more to it than that.

In my case, the group that has so graciously drawn me in has been my church, and especially my community group.

As a Christian, I look forward to Sunday worship services. They give me a chance every week to pause and re-focus on God, who is the center of my life. But worship services are not always the greatest place to get to know other people. So, like many churches, Grace City has formed community groups, which are smaller groups of people that meet on different days of the week, at different locations throughout the city. We study the Bible and pray, but most importantly we do this together as friends. We discuss as we study. We share about our lives and pray for each other.

In short, I found community in Japan by joining a community group. So it sounds like community groups work as intended. One would hope so, right?

But why do community groups work? Why did I feel drawn into this group, instead of pushed out? Why did I succeed in finding community in this particular place?

I think perhaps it’s because the very God whom Christians worship is a community, and the very message of Christianity is about welcoming outsiders into this community.

The God of Christianity is unique in being three in one. He consists of three “persons,” the Father, the Son, and the Holy Spirit, yet these three are in such perfect unity that they are called “one.” In other words, God Himself is a close-knit community.

God created humans to join and expand this community, but we have all rejected him and excluded ourselves from it. We have repaid his kindness with offense, and now he is angry with us, and we deserve it. We owe him more than we can pay. But God loves us so much that he himself paid what we owe. When Jesus died on the cross, he took the punishment that we deserved for our offensive behavior. As a result, free forgiveness is available to us if we ask for it. The Gospel, the message of Christianity, is that through Jesus, it’s possible for us to re-enter God’s community.

I believe this is why churches (when they function properly) are such amazingly welcoming places. We have all been welcomed into God’s family even though we did nothing to earn it. Therefore we can freely welcome others into our family. This transcends personalities, languages, and cultures. It’s the foundation of a warm, loving community that anyone can join.