聖書の語る幸福とは?

こんにちは、グレースシティの結実です!

私は2月のメッセージシリーズ「すばらしい知らせ」全体を通して、「幸福感」について考えさせられました。

幸福感というのは人それぞれ感じ方や価値観によって違ってくるところがありますが、クリスチャンになりたての人が勘違いしやすい部分でもあるのかな、とも思います。ということで、今回のブログでは「聖書の語る幸福」について、ヘタな落書きも交えて私なりの解釈を書いてみます。

バプテスマを受けたのに、教会から離れていってしまう人が絶えません。これは、教会に集う仲間として悲しいことですが、本人が実は一番つらいのかもしれません。

離れていってしまう人にも教会に集っている人にも共通して言えることですが、私たちはクリスチャンになる時に、どこか心の奥底でこう期待してしまっているのではないでしょうか。

「クリスチャンになれば人生のすべての問題が解決するはずだ。今よりもっと幸せになれるはずだ。」

だから、何か問題にぶち当たった時に、こう考えてしまいます。

「クリスチャンになったのに!なんで私の人生こんなに問題ばっかり!神様は私の声なんて全然聴いていないんだ・・・。自分自身の未熟さも全く変わってないし。もう嫌!」

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But!!

聖書には、クリスチャンになったら問題はなくなるなんて、ひとっ言も書いていないんです。

むしろ、もっとたくさん困難に遭うと書いてあります。

 

あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。
ヨハネの福音書16章33節

私たちは、何かを手に入れたら、状況が改善したら、初めて幸せになると思いがちです。

「仕事がうまくいったら」「この病気が治ったら」「この人間関係がうまくいったら」「痩せたら」「子供ができたら」「もっと稼げたら」・・・

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そして、クリスチャンになったら、もっと生活が、人生が良くなる、とどこかで期待しているのではないでしょうか。

希望を持つこと自体は悪いことではありません。むしろいいことです。

いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
―第一コリント13章13節

でも、福音が伝えようとしているのは、この世の人間関係や、ステータスやお金などが、私たちの「幸福感」を左右するカナメであるべきではないということです。

それとこれとは分けて考える必要があるのではないでしょうか。

condition-for-happiness
クリスチャンのスタンスとしては、神様から思いっきり愛を受けているから「基本幸せ!」なのです。イエス・キリストが死んで私たちの罪をあがなって下さって、すでにこの世における罪が許されているので、何事にもゆるがされない幸せが基礎としてあるのです。

これは、私たちが何か欲しかったモノを手に入れたときの「幸福感」とはちょっと違った感覚です。違うレイヤーの幸せなのです。

だから、「救われているはずなのに幸せに感じない」ということで自分を責める必要はないのです。聖書の語る幸福は、感情ではなく、ゆるぎない事実なのですから。あなたが自分の罪を認め、イエス・キリストを救い主だと認めた瞬間に「幸福」はすでに与えられています。

困難があったら誰だって気分が落ち込んだり、嫌な気持ちになったりします。

感情的になってもいいのです。

聖書にも、悲しんだっていいんだって書いてあります。

悲しむものは幸いです。その人たちは慰められるから。
マタイの福音書5章4節

 

ん?で、具体的に聖書の言う幸福感が実感できないんだけど・・・

と思うかもしれませんが、パウロがピリピ人への手紙に書いていることが近いと思います。

私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
ピリピ人への手紙4章11~13節

何かほしいものが手に入ったときも入らなかったときも、
変わらない愛が神様から与えられている。これが「聖書の語る幸福」です。
この愛があるから、ある意味全ての問題が解決されている。

love

でもそれじゃ物足りない(?!)と感じる人のためにも、聖書は私たちのすべきことを、第一テサロニケの5章16~18節でステップバイステップで教えてくれています。

1.いつも喜んでいなさい。
2.絶えず祈りなさい。
3.すべての事について、感謝しなさい。

困難に遭ってる時に喜べるわけないし!と思うかもしれませんが、ここで言っている喜びとは、「選択的喜び」なのではないでしょうか。プレゼントをもらった時などは喜びますよね。これは感情からくる喜びです。これと少し違って、イエス・キリストが私たちの罪を洗い清めてくださった。だから喜ぶことを「選択する」ことができる。

クリスチャンになったはずなのに幸せかどうかわからなくなってしまったという人は、「この世の約束する幸福」と「聖書の語る幸福」の違いをもう一度ふりかえってみませんか。

「聖書の語る幸福」は、置かれた状況にかかわらず、私たちに安心感を与えてくれるものです。私たちはすでに愛されています。主に寄り頼みましょう!

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